「人の気持ち」とは
もっと正確にいうなら「他人の気持ち」
他人の気持ちって難しい。
そもそも気持ちってなんだよって話。
色々な人がいて、色々な考えがある。
1つ1つが完全なオンリーワンかどうかは知らないけど、かなりのバリエーションがあると思う。
気持ちは人それぞれ、考え方それぞれの違いでどんな風にだって変化する。
気持ちの差はどこで生まれるのか
生い立ち?先天性?宗教?学歴?
考えてる事が抽象的過ぎて自分でも何の話か分からん。
ただ漠然と思った。
人の気持ちって難しいよねって。
自分には当たり前でも、他人には酷く特殊かもしれない。
自分には非常識でも、その人には当たり前かもしれない。
自己と他者の気持ちの発生理由、発生方法は常に違うし、同じでもある。
全く同じ境遇を辿った人間なら、全く同じ「気持ち」を共有できるのだろうか。
不可能だから実験のやりようもないが。
快感や喜びの共有は出来なくても実はあまり困らない。
不快な感情の共有が一番大事だ。
共に喜べなくても、不快に思うことが一致していれば、人は多分争わないのかもしれないと。
でも実際は喜びの共有こそ簡単で、不快の共有は難しい。
いや、喜びそのものに、もしかしたら不快が潜んでいるのかも。
例えば、何かしらの主張をする時、その反対意見を倒すときに一種の快感を得る事がある。
それは倒したことへの快楽か、或いは自分の意見が通ったことへの快楽か、それはわからない。
しかしながら何かしらの快楽を感じていて、その時倒れた相手は不快感をきっと持っている。
いや、これはおかしいか。
そもそも議論は倒す倒されるではない。勝つ負けるの概念ではまともな議論など出来ない。
いやしかし、主張=議論とは限らないのだからこれはこれでいいのか。
とにかく、何でもいいが誰かの快楽が、誰かの不快になっている事は往々にして良くあることだと。
どうでもいいが、快楽の対義語って不快で良いのか不安に思った。
不快の定義をしたいわけでもないが、「人の気持ちを知る」とは相手の不快がどの様な条件で起こるのかを知ることにある様に思う。
喜びは慮る必要は余りない様に思う。
見れば大体分かるという話でもあるし、そもそも喜びを感じ取れなくても、本人は喜びに包まれているのだから、こちらがそれを感じ取れているかは正直どうでもいい。
しかし不快感はやはり共有、いや共感できた方が人付き合いはやりやすい。
不快感を共感したからと言って、その人の気持ちがわかったかと言われれば、それは少しばかり違う様にも思えるけれど、やはり他人の不快感を敏感に感じ取れる人は人付き合いで有利と言えると思う。
さて何を思って書き始めたのか、鳥頭ゆえに忘れてしまった。
きっと徹夜明けだから頭がぼんやりとして、不意に言い難い不安に駆られたのかもしれない。
人の気持ちが分からない。自分の永遠の課題だ。
分からないが故に人の気持ちが気になってしょうがない。
どんな心境なのか、どんな感情なのか。
まるで強迫観念だ。
話して居る時も何をして居る時も気になる。
私は結構な無神経な人間だから、自分でも気付かない内に相手を傷つけたり、失望させたりという事をよくやらかす。
もしかするとそういう事を自分で分かっているからこそ、人の気持ちが気になるのかもしれない。
やらかしてからの後悔では遅いと知りつつも、それでもやはり自分が無神経に何かをしたのではないかと気になってしまうからなのか。
こうやってよくよく考えてみると、そもそも自分の気持ちがよく分からないという事がわかった。
わからない事がわかった所で、寝ることにする。